迷子イシ

大学に入ってから、というより受験の際に本を読むことから遠ざかってしまった影響で、中々に本が読めない状況が続いていたところ、久々に夜更かしして本を読んでしまった。

梶よう子さんの『迷子石』、読了。

迷子石 (講談社文庫)

迷子石 (講談社文庫)


手に取るきっかけとなったのは、『天地明察』の漫画を描いていらっしゃる槇えびしさんが表紙のイラストをお書きになった、という話から。
その方の絵が好きだったので調べたところ、話も少し気になって、本屋さんを回って3件目にしてようやく手に入れた。

しばらく本から離れていた私でも読みやすくて、じわじわと読んでいたのだけれど、昨夜、話の展開に寝るのが嫌になるぐらいのめりこんでしまって、深夜1時半に読み切る、という事態になった。

薬売りのおまけの絵を描く、見習い医師羽坂孝之助のお話。
病人と目を合わせることが苦手で、蘭学と漢方の両方を勉強していることから、周りの医師からも距離を取られていて。
偉大だった父のおまけのようなものだ、と悩む主人公が、富山藩の陰謀に関わるようになって・・・という。

じっくりゆったりしていたものが、ラストにかけていきなりテンポよく展開していくのだけれど、それも大きな派手さはなくて、何だか不思議な作品だった。

主人公なんかの雰囲気は『天地明察』に似ていて、でも話の展開や、終わり方、作中に登場する幼馴染などは上橋菜穂子さんの『狐笛のかなた』や、オノ・ナツメさんの『さらい屋五葉』に似ているところがあって。

何と言うか、ものすごく、私好みの作品だった。

良い作品、というよりも、すごく好み。装丁や表紙イラスト、そして内容ひっくるめて、全部、私好みだった。


解説の出だしが秀逸だった。

迷子医師とは、災害などではぐれてしまった身内を探すため、名前や見た目の特徴などを書いて貼った標石のことである。
――と書こうとして迷子石と打ったら、迷子医師と変換された。


腑に落ちた、というようにこの解説者の方は書かれていたのだけれど、それを読んで、私も、なるほど、となった。

迷子医師、迷子石。



本を読めないのは悔しいので、ぽつぽつとリハビリ。

何度か突発的に読み切った作品があったのに記録していなかったので、それも思い出しつつ記録しよう。



野火でした。

さらい屋五葉

春休みに入ってから、オノ・ナツメさんにハマっている。
ハマっている、というほど、作品を持っていないのだけれど。

一度は記事に書いたような気がしていたのだけれど、何故か見当たらなかった。
オノ・ナツメさんの漫画の話。

高校の頃に、ちょっとオノさんが気になっていた時期があって、持っていたのが初期の2作品。

LA QUINTA CAMERA―5番目の部屋 (IKKI COMIX)

LA QUINTA CAMERA―5番目の部屋 (IKKI COMIX)

not simple (IKKIコミックス)

not simple (IKKIコミックス)

「LA QUINTA CAMERA」はとても優しくてほんわかとした漫画。大きな事件も何もなく優しく進行していく感じがとても好きで、これを高校の先輩に借りたことが、好きになったきっかけ。

「not simple」は、同時期に気になって自分で買ったものだったけれど、すごい、という表現が正しいのか否か。
とにかく、暗い。希望なんて微塵もないぐらいに暗いのだけれど、そこに少し除くやさしさというか、温かみのような独特なものがあって。何とも言えない、独特の読後感が好きだ。
とても衝撃的で、とても暗いのに読後感が悪くないのが、本当、何とも言えない。

持っている漫画の中で見ても、この2作品は異質で、他に比べようがなくて、でも、好きな作品だったのだけれど。


この春休み、ひょんなことから目にとまって、思い切って衝動買いしたのが「さらい屋五葉」。

さらい屋五葉 第1集 (IKKI COMICS)

さらい屋五葉 第1集 (IKKI COMICS)

さらい屋五葉 8 (IKKI COMIX)

さらい屋五葉 8 (IKKI COMIX)

何となく、1巻と、ラストの8巻。

思い切って衝動買いして、良かった、と心の底から思った。

「not simple」ほど暗くないのだけれど、出て来るキャラクターがそれぞれに何かを抱えていて、そしてやっぱり暗い部分も多くて。
だったのだけれど、それでも暗くない、というか、これは希望を見出してくれた漫画で。
とにかく、優しい。暗いけれど、優しい。
もう、ラスト5,6ページでハラハラと涙がこぼれてしまうような、そんな作品。

要は、性に合っていた、というのが手っ取り早いのだけれど。

がっつりハマってしまい、そのままイラスト集も買ってしまった。普段、あんまりイラスト集やキャラクターブックは買わないのだけれど。

画帖・さらい屋五葉 (IKKI COMIX)

画帖・さらい屋五葉 (IKKI COMIX)

イラストは勿論ながら、描きおろしの漫画がまた優しくて優しくて。
いいなあ、って。本当に、胸にストンと落ちるような。


この「さらい屋五葉」にある引退した頭目さんが出て来るのだけれど。
その昔の話の際に、並び組頭、という話があって。
二人で並び立つ頭目だった、という話なのだけれど。

オノさんの時代劇で、「ふたがしら」という作品があったよな、と題名だけ知っている作品名が頭を横切った時に。

ふたがしら」ってもしかして「並び組頭」ということで。
もしやその人のお話なのでは・・・?と思ったらビンゴ。これも衝動買いしてしまった。

ふたがしら 第1集 (IKKI COMIX)

ふたがしら 第1集 (IKKI COMIX)

これはまだ3巻までで以下続刊。28日に4巻が発売。

若かりし日の一味を飛び出して、大きなことがしたい、と夢見る男の人2人組の話で、こちらは爽快。
すかっとする、というか、わかりやすくて、明朗。
クールな切れ者と、猪突猛進だけれど男気溢れたまっすぐな相棒、という組み合わせは王道なのだけれど、王道だからこそ、という面白さ。

好みは「さらい屋五葉」から未だ抜け出せず、だけれど。
しばらくウキウキとハマっていようと思う。



野火でした。

COPPERS

前記事の追記の形。

オノ・ナツメさん漫画、まだあったのだった。

夏休み過ぎた頃に一度ブームがあって、漫画買っていたんだった、失念していた。

Danza [ダンツァ] (モーニング KC)

Danza [ダンツァ] (モーニング KC)

COPPERS [カッパーズ](1) (モーニング KC)

COPPERS [カッパーズ](1) (モーニング KC)

「COPPERS」は全2巻。
「Danza」共々のんびり、というわけではないけれど、ちょっとほっこり、ゆったり、そんな作品で、これはこれで大好きだ。


「COPPERS」は架空のNY警察署を舞台にした作品なのだけれど。
その登場人物の一人、ベテラン警官のタイラーのセリフがとても好き。

相手が俺らを「クソ警官」と思ってる以上、警官らしいことをしても逆効果なだけだ


ダメなことをダメ、と押し付けるのではなくて、そばでちゃんと見守ることが大切なのだと、後輩を諭すシーン。
ちゃんとそばで見守っている、ってことを、わかるように。毎日声を掛けて、顔を出すことが大切だ、という話。

何だかすとん、と胸に落ちて。

ああ、そうだよなあ、って自分の実体験も思い出しつつ。

そんな話も、オノ・ナツメさん。

大学入ってからオノさんがちまちま増えている。


野火でした。

水面に映る

先々週あたり。
母から、母方の祖父が入院した、という連絡を受けた。

いつ危なくなってもおかしくないから、覚悟しておいて、とのこと。

そうして不安定な予定の中で、私はこの春休みに取りたかった車の免許を諦めて、でも大学の委員会活動とアルバイトの関係で尾道と実家を往復する、という日々を過ごしていて。
弟は家族や塾や学校の先生方の予想を裏切って推薦で高校受験をクリアして。
父と母は何度か様子を見にお見舞いに行って、そのまま仕事に行く日々を送っていて。

そんな日々の中で、何度か危ない、と父と母は呼び出されたものの、徐々に回復してちょっと落ち着きつつある、と聞いていた祖父の容体。

今日、初めて見舞いに訪れた。


会う前に、父君がそっと一言。
「だいぶ弱ってらっしゃるから、ショックかもしれない。」


祖父は、元々躁鬱があったけれど、そこに数年前からボケが入っていて、結構大変だった。
大変だった、という言い方は他人事だけれど、それは私が実際そことちゃんと関わっていないせい。

頑固になって、面倒を見ている祖母が鬱で入院してしまうこともあったし、そうやって周りに迷惑をかける行為を止めようとして口論になる母や祖母や伯母と対立が深くなることもあって。
そういう、母がやつれたり口論している姿や、そういったことの愚痴を零すのは聞いていたのだけれど。
母が、そういった状態に近づけようとしなかったこともあって、受験で一年訪れなかったまま、ずるずると2年ほど会わなかった。


会ったのは、大学に入っての夏休み。
母が帰省するというのに、大学の方から合流した。

優しかった祖父が頑固になっていて、痩せていて、少し顔つきが険しくなっていて。
案の定、母は着いて早々口論になって、伯母の家まで飛び出してしまった。

祖母や、伯母を守るために母が敢えて折れずに口論しているのも知っているし、それを見守る祖母が苦労しているのも話の上では知っているから、どっちが悪いとも言えなくて。

でも、母と口論になって、悔しそうな祖父が、寂しそうなんだろうな、って、そういう風に感じて。
周りからしたらそんなことはないけれど、祖父からしてみれば、母も祖母も伯母も敵みたいに、独り残されたみたいに思えるんだろうな、って。
このまま母を追いかけたら、祖母と気まずいまま二人で淋しい部屋に居るんだろうな、って思ったら、母が追いかけられなくて。
母が帰るよ、と声を掛けてくるまで、祖父が色んな愚痴とも怒りとも言えないような言葉をこぼすのに、相槌を打って耳を傾けていた。
母や祖母のことを悪く言う言葉を、一緒に肯定は出来ないけれど、否定はしない。「そうだねぇ」って相槌を打つだけ。遮らない、否定しない、でも聞き流さない、っていう、それだけが精一杯だったけれど、その精一杯を私なりに、私なりに。


その時の、心残りが、あった。

母が帰るよ、と怒って私と祖母を連れ出す時に。
祖父がやっぱり顔を歪めて。
考えたことじゃなくて、咄嗟に。机の上に置かれていた祖父の手を握って、「また来るね」って言った。
細さにびっくりしたけれど、思うより前に動いた、感じ。


そう言った時の傷ついたような、曖昧に頷いた祖父が忘れられなくて。
「また来るね」って言ったのに、会えないままは嫌で。
でも、弱って病室に横たわる祖父を見るのも怖くて。


中学生の時、父方の祖父がいきなり病院に運ばれたことがあった。
その時の感覚を、今でも覚えている。
病室までの廊下の緊張感だとか、ベットに横たわった祖父を見た時の、言い様のない衝撃。

そんなことを思い出して、緊張して。
今回も、父の言葉を聞いて、深呼吸しながら、本当に緊張して、病室まで行った。


淋しい病室に、小さなベットに、夏休みよりも更に小さく、細くなった祖父が収まっていて。
「来たよ」と祖母が声を掛けると、祖父がぼんやり眼を開けて、片手を上げて。
片手を上げて挨拶を返したけど、目を見たら、咄嗟に、その手を握ってしまった。

もっともっと細くなっていて、ちょっと油っぽい手にびっくりしたけど、離さなくて。
言葉も見つからないから、そのままちょっと手を握って祖父と笑いあってた。
笑い合ってたと、思う。多分。

痛み止めを打っている祖父は絶えずうつらうつらしていて。
言葉も交わさないけれど、傍の椅子に腰かけて、私もうつらうつらしながら、たまに開いた目が合ったら無言のまま、笑ったり、頷いたり、っていうことを無意味に繰り返して、2時間ほどして、挨拶をして、帰ってきた。


父方の祖父と、そのあと祖母が何度か入院した、中学生、高校生の時は、向き合えなかった。
病室に収まっている姿を見るのもいたたまれなくて、雑談して気を紛らわせる余裕もなくて、すぐ病室を出て行ってるような、そんな見舞いだった。


曾祖母が、父や祖父と喧嘩していて、もう何年も会えていないこと。
会いたい、というのもためらわれている内に、どこか場所も知らない施設に入ってしまったこと。

顔も合わせないまま、今度は母方の祖父が呆け始めたこと。

そういうことに、向き合えないまま、でも向き合うのも恐いから逃げていたことを、ずっと後悔していたし、後悔している。


高校の最後の夏休みに、一度。
そういった思いを、渾身の勢いで吐き出した小説を書いた。
顧問に出すのも恥ずかしくて、2,3か月も顧問に見せずにいたような、そんな拙い作品。


書くって、意味があることだったんだな、ってぼんやりと思った。

その時に、後悔したくない、っていう風に書いた。
自分で読むと恥ずかしいぐらいだけれど、それを一度言葉として出したものが、自分の中に蓄積されていて。

後悔したくない、って思ったから、今回は逃げなかった。
逃げていたけれど、今日この日は逃げなかった。

どうしたって恐いし、自分から足を運べるかと言ったら自信はないから。
今日のこの一瞬のものだけかもしれないけれど。


水面に似ている。
書き出した言葉が鏡になって自分を映していて。
それを見て、一瞬頑張って、でもふいに水面が揺らめいて消えてしまうような、そんな感じ。

せめて、水面の自分を目にした時ぐらいは。
逃げないでいたい。

蓄積していたものが、顔を出した時には、ちゃんと向き合いたい。



上手く、言えないけれど。

野火でした。

春の庭

心を入れ替えて更新する、と思ったのものの1月は3週間目からテストが始まる、という状態で、ようやく終わって春休み。
1年立った、って実感するのが不思議なぐらい、目まぐるしく、でも楽しく、その実ゆったりしていたような大学一年生。

テスト前の最後の授業で、今年退任なさる先生が「本居春庭」の話をして下さった。

本居宣長の長男で、日本で初めて国語の活用表を作った、という方。
その話が何だか不思議で。
その偉大な本『やちまた』を出した時に春庭はとうに失明していた、という。

ではどのようにして?という話になった際に、父である宣長の補助として様々な知識を幼少から詰め込んでいたことや、妹が手伝ったこと、妻が手伝ったこと、弟子が手伝ったこと。
また、宣長はずっと期待していた長男春庭が失明しても、彼に家督を継がせる気でいたのだけれど、春庭自身が失明した身では、とそれを拒み、結果長らくの弟子を養子として家督を継がせたのだけれど、その本居大平がこれまた尽力してくれたのだとか。

天地明察』みたいでわくわくして聞いてしまって。
その授業の後、息を切らせて先生にびっくりされながら「本居春庭の話が聞きたいです」と研究室に押し掛けた。

資料は国語学史的なものしかないよ、と言いながら図書館にあるめぼしい資料の名前を教えて下さったり。
『やちまた』の一部の資料や春庭の簡易年表のコピーを上げましょう、と快く下さったり。(しかも私はまたコピーしますから、と先生の手元にあった資料の元を頂いてしまった。)

それから、広島出身です、というと、子供の頃の広島での思い出を語って下さったりして。
とてもゆるやかに、やさしい時間だった。

その先生の授業は、私は後期からの必修授業からしかなくて。
何で、出会って半年もしないうちに退任なんだろう、せめて、前期からお会い出来ていれば、と思わずにいられない素敵な先生で。

「うちの大学は、小さいし知名度もないけれど、日本文という分野で言えば、これだけ多方面に先生が揃っている大学はめったにない。ここでしっかり勉強すれば、東大に行って何となく4年間過ごすよりも良いものが得られますよ。」
と仰る一方で、中々来ない方が居る、という話をすれば
「やっぱり何らかの形で来れなくなる人は居ますよ。不本意にこの大学に来た人も居ますしね。でも、何かの拍子に来れるようになったりもするし、それぞれのペースでいいんですよ。」
とにこやかに、穏やかに仰る先生。

テスト最終日に研究室にお邪魔しても居られなかったので、春休み初日に先生の研究室にお邪魔すると、丁度チューターグループの会合直前だったようで、快く迎え入れて下さった挙句に、チューターのメンバーと一緒にお茶を淹れて下さった。


ああ、と言いながら迎えて下さって、奥から分厚い本を持ってきて下さって。

「これ、読みますか?」

と差し出して下さったのが『やちまた』。思わず、「読みます」と即答してしまった。

では貸してあげましょう、とあっさりと貸して下さったのだけれど、どうすれば、と困惑していると、「読み終わったらそうですね、郵送して貰いましょうか」と、サラサラと住所を書いて下さって。
「卒業までにゆっくり読んで、送ってください。」とのこと。

何だか、すごく嬉しいのと、寂しいのと、やっぱり嬉しいのと。
本居春庭」のことを覚えていて下さっていたこと。もう退任されるから縁遠いものになると諦めていたところが、ふいに繋がったこと。
上手く言えないけれど、そういったことが、たまらなくて。

ああ、幸せだなあ、って。


中々本が読めなくなってしまったけれど、それでも、ゆっくり、ちゃんと。
じっくり読んで、郵送とは言わず、先生の元を訪ねれたらいい、と密かに野心を抱いている。


自分から動くのは得意ではないけれど、何かしら行動を起こせば、こうして繋がるものがある。

自分のペースで、一日一日、大切に生きて行こう。


野火でした。

狭間に消えゆく、

後期に入ってから演習の授業の一つで夏目漱石の『坊ちゃん』の自筆原稿と本として出版されたものとの比較をやっていて。
初めて本という形で出版された初出、『ホトトギス』、そして『鶉籠』、『漱石全集』、そして自筆原稿を比べて異同表を作り、これはどういう経緯で変化しているのか、どういう意味があるのか、ということを検討していくのだけれど。

基本は句読点がない、とかそういう単純ミス。その編集のミスの中には大きなミスもあったり、漱石さんの字の間違いの訂正があったりするのだけれど。

つい先日検討資料の中にあったものに、「返す」「帰す」の表記の話。

坊っちゃん』前半は前期に前半クラスがやっているのできっちり把握していないのだけれど。


「返さないんじゃない、帰さないんだ。」というような一文が最も印象的で、象徴的。
これは自筆原稿の方の表記で、勿論出版されたものは「返さないんじゃない、返さないんだ」にもれなく編集されていた。

漱石さんの自筆原稿、漢字ミスが多いので、それを修正、という形もあるのだけれど、この漢字は話が違うのでは?というのがクラスの主な意見で。

というのも、奢られた分のお金を坊っちゃん山嵐に突き返したシーンで、人に奢られるというのはその人を一人の人と認めての相手への礼儀だ、という話。
清への3円もまだ返してないけど、「返さないんじゃない、帰さないんだ。」、と。

この前後に山嵐にお金を返す、清にお金を返す、と坊っちゃんが考えているところなので「かえす」という言葉が多く。
そこに「帰す」が多く混ざっていることが、これがただのミスではない、というポイント。

「帰す」と「返す」が混ざっているということは、漢字を取り違えているというわけではないのに「帰す」が多い。

では本当にどうなんだろう、ってなった時に、最初に清に3円借りた時には、という話。

それがさかのぼると、ここも「帰す」になっている。

得られた結果が、坊っちゃんがお金なんかを返すという話をする時、清の時だけ「帰す」という表記にしている、という。
これはやはり夏目漱石がそういう意図して使ったものであって、ミスとして修正して良いものではなかったのではないか、という。


これにどういう意図が込められていたのか、なんて、いくら議論しても本人しかわからなくて、誰が正しい、誰が間違っている、というのもないのだけれど、それでも授業では色々意見を出していく。周りからしたらそれは意味がないのかもしれないのだけれど、私は中々に好きだ。


そんな授業の中で印象に残った意見があって。


坊っちゃんにとって、清は心の拠りどころのようなものであり、帰る場所、のようなところがある。そういう思いを込めて、清に対して「帰す」という言葉を使っているのではないか。


ああ、いいなあ、って。正しいとかじゃなくて、そうだったら、素敵だなあ、って。個人的な思いだけれど。

たった一つの言葉で、こういう作品全体に関わるような議論が出来る。
それは意味がない、と言われるのかもしれないけれど。
そういう無駄だと思えることでも、考えることが好きだし、きっと無駄ではない。


当たり前に言葉を使って生きているから、本当は言葉に敏感になる、大切に出来る、っていうのは、誰かと生きていく、人の中で生きていく、っていう中でとても大切なことなんじゃないかな、って、最近思う。


編集の方が良かれと思って修正した「帰す」の文字。
もう、普通に本を手にとっても目にすることはない、そういう消えてしまったもの。
もしかしたら、ここに思いがあったかもしれないのに、っていう。

狭間で消えていったもの。
それに触れる機会が出来るという幸せ。


言葉は、何か、例えばメール文面であったり、人であったり。
そういうものを介して伝わっていくものだから。
自分の思いが100%伝わるものではなくて、狭間で何かが変わってしまったり、違って写るようになってしまったり。

そういう狭間に消えていったものを拾い上げれるような幸福を、これからも願いたい。


野火でした。

花と天秤

続けて更新しているのは終わる冬休みや課題からの現実逃避・・・とも言える。
はてなを離れていた反動、とも。

記事振り返っていたら以前羽柴麻央さんの漫画についてふれていたので、遅れながら記録。

箱庭ヘブン(2) (BE LOVE KC)

箱庭ヘブン(2) (BE LOVE KC)

「箱庭ヘブン」の続刊をゲット。
一巻と比べると動きの小さい巻だった気がするけれど、でもやさしい雰囲気が好きだなあ、と。
個人的には一巻の方が好きだけれど、箱庭ヘブンは箱庭ヘブン。まとめて好き。


花と天秤 (マーガレットコミックス)

花と天秤 (マーガレットコミックス)

そして本当に好きだったのが12月に出た「花と天秤」。
キュンとする、っていうのを久しぶりに。少女漫画の感覚の胸キュン、というのが久々。
羽柴さんの描く女の子って何とも言えない。
完全に共感する!っていうものでは消してないのに、琴線に触れる、というより誰しも少しずつ持ってる部分をかすめていくような、そんな感じ。

まだまだ全然だけれど(むしろ遠ざかっている?)ずーっと羽柴さんの漫画のような透明感のある感じを、文章で表現出来るような、そんな風になりたい、と憧れてやまない。



そろそろもう一冊何か読み切り集が出るはず。


野火でした。