狭間に消えゆく、

後期に入ってから演習の授業の一つで夏目漱石の『坊ちゃん』の自筆原稿と本として出版されたものとの比較をやっていて。
初めて本という形で出版された初出、『ホトトギス』、そして『鶉籠』、『漱石全集』、そして自筆原稿を比べて異同表を作り、これはどういう経緯で変化しているのか、どういう意味があるのか、ということを検討していくのだけれど。

基本は句読点がない、とかそういう単純ミス。その編集のミスの中には大きなミスもあったり、漱石さんの字の間違いの訂正があったりするのだけれど。

つい先日検討資料の中にあったものに、「返す」「帰す」の表記の話。

坊っちゃん』前半は前期に前半クラスがやっているのできっちり把握していないのだけれど。


「返さないんじゃない、帰さないんだ。」というような一文が最も印象的で、象徴的。
これは自筆原稿の方の表記で、勿論出版されたものは「返さないんじゃない、返さないんだ」にもれなく編集されていた。

漱石さんの自筆原稿、漢字ミスが多いので、それを修正、という形もあるのだけれど、この漢字は話が違うのでは?というのがクラスの主な意見で。

というのも、奢られた分のお金を坊っちゃん山嵐に突き返したシーンで、人に奢られるというのはその人を一人の人と認めての相手への礼儀だ、という話。
清への3円もまだ返してないけど、「返さないんじゃない、帰さないんだ。」、と。

この前後に山嵐にお金を返す、清にお金を返す、と坊っちゃんが考えているところなので「かえす」という言葉が多く。
そこに「帰す」が多く混ざっていることが、これがただのミスではない、というポイント。

「帰す」と「返す」が混ざっているということは、漢字を取り違えているというわけではないのに「帰す」が多い。

では本当にどうなんだろう、ってなった時に、最初に清に3円借りた時には、という話。

それがさかのぼると、ここも「帰す」になっている。

得られた結果が、坊っちゃんがお金なんかを返すという話をする時、清の時だけ「帰す」という表記にしている、という。
これはやはり夏目漱石がそういう意図して使ったものであって、ミスとして修正して良いものではなかったのではないか、という。


これにどういう意図が込められていたのか、なんて、いくら議論しても本人しかわからなくて、誰が正しい、誰が間違っている、というのもないのだけれど、それでも授業では色々意見を出していく。周りからしたらそれは意味がないのかもしれないのだけれど、私は中々に好きだ。


そんな授業の中で印象に残った意見があって。


坊っちゃんにとって、清は心の拠りどころのようなものであり、帰る場所、のようなところがある。そういう思いを込めて、清に対して「帰す」という言葉を使っているのではないか。


ああ、いいなあ、って。正しいとかじゃなくて、そうだったら、素敵だなあ、って。個人的な思いだけれど。

たった一つの言葉で、こういう作品全体に関わるような議論が出来る。
それは意味がない、と言われるのかもしれないけれど。
そういう無駄だと思えることでも、考えることが好きだし、きっと無駄ではない。


当たり前に言葉を使って生きているから、本当は言葉に敏感になる、大切に出来る、っていうのは、誰かと生きていく、人の中で生きていく、っていう中でとても大切なことなんじゃないかな、って、最近思う。


編集の方が良かれと思って修正した「帰す」の文字。
もう、普通に本を手にとっても目にすることはない、そういう消えてしまったもの。
もしかしたら、ここに思いがあったかもしれないのに、っていう。

狭間で消えていったもの。
それに触れる機会が出来るという幸せ。


言葉は、何か、例えばメール文面であったり、人であったり。
そういうものを介して伝わっていくものだから。
自分の思いが100%伝わるものではなくて、狭間で何かが変わってしまったり、違って写るようになってしまったり。

そういう狭間に消えていったものを拾い上げれるような幸福を、これからも願いたい。


野火でした。