蚤も蚊も居ない国

「世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません」
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は詰め寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、画にはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の前へ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色を伺うと、
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹ね」と云って退けた。

ご無沙汰してました。
その間に、気が向いて、再び草枕を読んだ。


蚤も蚊も居ない国が無いように、人が死なない国もないんだ、っていうそんな言葉が浮かんだり。


前回の更新の前。一ヶ月前に祖父が亡くなった。

ブログにすぐ書かなかったのは、今回は、忘れてはいけないんだろうな、っていう思いを、別の形で残してみたいともがいていたから。

小説に書くっていうことに、意味があると思ったお見舞いの逆のことをしようと思って。
いつもはブログで少し心を整理していっていた作業を、今回は文芸創作の上でしてみたかった。


1ヶ月の間、震災の3年後のニュースもあって、そういったものを、どうにか形に出来ないかともがいてもがいて、拙いけど、少しは形になったような気がして、すっきりするぐらいのものが出来たので。
こちらに戻ってきた。


この歳になって初めての葬儀は、思うところが多くて。
小さい頃なら、もっと怖かったのかな、とか、それとも今だから怖いのかな、って思うこととか。

最後の最後。泣いてしまって。
悲しいとか、何だかよくわからないのだけれど、泣けてきて。
祖父が好きだったな、と思った。


そして、こういう気持ちもは、やっぱり徐々に薄れて、慣れてしまうところがあることを、改めさいて実感した。


草枕』を、その時期に読もうと思ったのは何となくだけれど、読んで良かった。
どこか浮世離れしていて、仙人の卵のような香りのする小説だけれど。
最後に浮上した、現実が、切なくて、優しくて。
上手く、言えないけれど。


何から何まで、上手く言えないけれど。
それを、少し包んでくれるような、そんな思いになるような、今回の『草枕』だった。
違う状況で読んでみたら、また変わってくるのだな、としみじみ。


野火でした。