水面に映る

先々週あたり。
母から、母方の祖父が入院した、という連絡を受けた。

いつ危なくなってもおかしくないから、覚悟しておいて、とのこと。

そうして不安定な予定の中で、私はこの春休みに取りたかった車の免許を諦めて、でも大学の委員会活動とアルバイトの関係で尾道と実家を往復する、という日々を過ごしていて。
弟は家族や塾や学校の先生方の予想を裏切って推薦で高校受験をクリアして。
父と母は何度か様子を見にお見舞いに行って、そのまま仕事に行く日々を送っていて。

そんな日々の中で、何度か危ない、と父と母は呼び出されたものの、徐々に回復してちょっと落ち着きつつある、と聞いていた祖父の容体。

今日、初めて見舞いに訪れた。


会う前に、父君がそっと一言。
「だいぶ弱ってらっしゃるから、ショックかもしれない。」


祖父は、元々躁鬱があったけれど、そこに数年前からボケが入っていて、結構大変だった。
大変だった、という言い方は他人事だけれど、それは私が実際そことちゃんと関わっていないせい。

頑固になって、面倒を見ている祖母が鬱で入院してしまうこともあったし、そうやって周りに迷惑をかける行為を止めようとして口論になる母や祖母や伯母と対立が深くなることもあって。
そういう、母がやつれたり口論している姿や、そういったことの愚痴を零すのは聞いていたのだけれど。
母が、そういった状態に近づけようとしなかったこともあって、受験で一年訪れなかったまま、ずるずると2年ほど会わなかった。


会ったのは、大学に入っての夏休み。
母が帰省するというのに、大学の方から合流した。

優しかった祖父が頑固になっていて、痩せていて、少し顔つきが険しくなっていて。
案の定、母は着いて早々口論になって、伯母の家まで飛び出してしまった。

祖母や、伯母を守るために母が敢えて折れずに口論しているのも知っているし、それを見守る祖母が苦労しているのも話の上では知っているから、どっちが悪いとも言えなくて。

でも、母と口論になって、悔しそうな祖父が、寂しそうなんだろうな、って、そういう風に感じて。
周りからしたらそんなことはないけれど、祖父からしてみれば、母も祖母も伯母も敵みたいに、独り残されたみたいに思えるんだろうな、って。
このまま母を追いかけたら、祖母と気まずいまま二人で淋しい部屋に居るんだろうな、って思ったら、母が追いかけられなくて。
母が帰るよ、と声を掛けてくるまで、祖父が色んな愚痴とも怒りとも言えないような言葉をこぼすのに、相槌を打って耳を傾けていた。
母や祖母のことを悪く言う言葉を、一緒に肯定は出来ないけれど、否定はしない。「そうだねぇ」って相槌を打つだけ。遮らない、否定しない、でも聞き流さない、っていう、それだけが精一杯だったけれど、その精一杯を私なりに、私なりに。


その時の、心残りが、あった。

母が帰るよ、と怒って私と祖母を連れ出す時に。
祖父がやっぱり顔を歪めて。
考えたことじゃなくて、咄嗟に。机の上に置かれていた祖父の手を握って、「また来るね」って言った。
細さにびっくりしたけれど、思うより前に動いた、感じ。


そう言った時の傷ついたような、曖昧に頷いた祖父が忘れられなくて。
「また来るね」って言ったのに、会えないままは嫌で。
でも、弱って病室に横たわる祖父を見るのも怖くて。


中学生の時、父方の祖父がいきなり病院に運ばれたことがあった。
その時の感覚を、今でも覚えている。
病室までの廊下の緊張感だとか、ベットに横たわった祖父を見た時の、言い様のない衝撃。

そんなことを思い出して、緊張して。
今回も、父の言葉を聞いて、深呼吸しながら、本当に緊張して、病室まで行った。


淋しい病室に、小さなベットに、夏休みよりも更に小さく、細くなった祖父が収まっていて。
「来たよ」と祖母が声を掛けると、祖父がぼんやり眼を開けて、片手を上げて。
片手を上げて挨拶を返したけど、目を見たら、咄嗟に、その手を握ってしまった。

もっともっと細くなっていて、ちょっと油っぽい手にびっくりしたけど、離さなくて。
言葉も見つからないから、そのままちょっと手を握って祖父と笑いあってた。
笑い合ってたと、思う。多分。

痛み止めを打っている祖父は絶えずうつらうつらしていて。
言葉も交わさないけれど、傍の椅子に腰かけて、私もうつらうつらしながら、たまに開いた目が合ったら無言のまま、笑ったり、頷いたり、っていうことを無意味に繰り返して、2時間ほどして、挨拶をして、帰ってきた。


父方の祖父と、そのあと祖母が何度か入院した、中学生、高校生の時は、向き合えなかった。
病室に収まっている姿を見るのもいたたまれなくて、雑談して気を紛らわせる余裕もなくて、すぐ病室を出て行ってるような、そんな見舞いだった。


曾祖母が、父や祖父と喧嘩していて、もう何年も会えていないこと。
会いたい、というのもためらわれている内に、どこか場所も知らない施設に入ってしまったこと。

顔も合わせないまま、今度は母方の祖父が呆け始めたこと。

そういうことに、向き合えないまま、でも向き合うのも恐いから逃げていたことを、ずっと後悔していたし、後悔している。


高校の最後の夏休みに、一度。
そういった思いを、渾身の勢いで吐き出した小説を書いた。
顧問に出すのも恥ずかしくて、2,3か月も顧問に見せずにいたような、そんな拙い作品。


書くって、意味があることだったんだな、ってぼんやりと思った。

その時に、後悔したくない、っていう風に書いた。
自分で読むと恥ずかしいぐらいだけれど、それを一度言葉として出したものが、自分の中に蓄積されていて。

後悔したくない、って思ったから、今回は逃げなかった。
逃げていたけれど、今日この日は逃げなかった。

どうしたって恐いし、自分から足を運べるかと言ったら自信はないから。
今日のこの一瞬のものだけかもしれないけれど。


水面に似ている。
書き出した言葉が鏡になって自分を映していて。
それを見て、一瞬頑張って、でもふいに水面が揺らめいて消えてしまうような、そんな感じ。

せめて、水面の自分を目にした時ぐらいは。
逃げないでいたい。

蓄積していたものが、顔を出した時には、ちゃんと向き合いたい。



上手く、言えないけれど。

野火でした。