心の穴の断片
課題課題で全然更新出来なかったのだけれど、合間を縫って本日観た映画のことと、思ったことを、書きたくなって。どうしても、どうしてもはてなに残しておきたくて。
受験期から観たかった映画を、先日TSUTAYAに初めて行って、借りた。
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僕たちのムッシュ・ラザール。
暗い作品かと思って、少し覚悟していたのだけれど、違った。
先生の自殺、という暗い影がついてまわるのだけれど、それでも、作品はどこまでも優しい。
淡々、しっとり、そんな作品は好きだけれど、一概にそんな言葉でくくるのは難しい、そんな作品。
二時間ほどが、とても長く思えて、でもそれは退屈で感じる長さじゃなくて、ゆっくり、それでもさらりと、丁寧に、丁寧に紡がれた映画の長さ。
淡泊であり、それでも濃厚。
不思議な作品でした。
最後は、号泣してしまった。
でも、予想していた号泣とも違って。
本当に、不思議で、観ないとわからない。そんな良さ。
人はみんな寂しい、という中学の担任の言葉を思い出した。
そして、高校の夏を思い出した。
今まで整理がどこかついているようでついていなくて。
ぽつぽつ、かつ、割としっかりと書いていたけれど、それでもがっつり書くことはなかった自分の高1の夏。
国や文化による価値観の違いはあるけれど、人を失う寂しさは、誰しも変わらないのだと、思った。
それでも、寂しさの形は、違う。
人を失う寂しさは誰しも同じように持つけれど、それがどんな形で表に出るのか、どんな形で受け取られるのか、それは、人によってきっと違って。
だから、傷ついていることに気付かなかったり、人を傷付けたりするんじゃないかな、って、そんな風に思った。
何度も書いたけれど、本当にその時のことは、まだブログを始める前のことだったし、あんまり自分の中でも整理つなかくて、書かなかったこと。
今なら、残しておこうという気になって。そして、残さないといけない気がして。
だって、残酷なくらい、忘れてしまうから。
あまり良い話ではないのでたたみます。
こんなことがあって、それが私の中に少なからず残っていることは、今までにも触れていた。
「僕たちのムッシュ・ラザール」の、担任の先生の死で、子供たちの中にある不安だとか、ショックだとか、そんな感じ。
心にどこかぽっかり穴があいたような、そんな感情の欠片を、私は知っている。
高1の夏。終業式前日。
吹奏楽で、野球部の、甲子園県予選第3戦の応援に行った。
結果は負けてしまって。
先にバスで帰った吹奏楽で、門の前に並んで、野球部が帰るのを待っていた。
結果を言えば、野球部とは会わずじまいで、野球部が球場で話し合いだとか、とりあえずそんなことをして残っていて遅れる、という連絡があったはだいぶ後で。
遅いな、遅いな、って、ずっと待ってた。
そしてね、門のところにそうして並んでいたら。
いきなりサイレンが聞こえて。
近づいてきて。
学校の前の坂をサイレンを鳴らして上ってくる。
最初は多分消防車。そして、救急車。パトカー。
グラウンドで部活してる生徒も固まって、私も固まって、何があったのかわからなくて。
そしたら、部活を終了しろ、先生方は校舎の窓を閉めて下さいって放送がかかって。
ざわざわしたままグラウンドが閑散として。
それでも門のとこにどうしたらいいかもわからずに立ち尽くしてて。
火事だろうか、でも煙は出ていないし、え、何で?とみんなで言いながら。
救急車や消防車が校舎前に止まっているのは見えるのに、何があったのかわからない。
わからないのに、サイレンを鳴らして、門のところに整列している私たちの前を、駆けてゆく。
あの怖さったらない。何が起きているのかわからないまま、次々と救急車や消防車が来る感じ。
3年たとうとする今も、同じようにサイレンが近づいて通りすぎる瞬間は恐い、と感じる。大袈裟に思えるけれど、多かれ少なかれ、それでもやはり、身体がこわばる。身がすくむ。身体を縮こませることもあるし、事情を知っている友人の前だと、友人の腕やカバンをひっしと掴ませてもらったりする。
野球部は遅くなるし、もう帰れ、と事情もわからぬまま追い返されて。
サイレンや何かで出てきたのだろう、学校の坂の下に住んでいる住民の方に「何があったの?」「火事?」と聞かれたのに「私にもわからないんです」としか答えれない不安と焦りと怖さ。
そのまま帰ってね。
家について、こっちが不安だったことを打ち明ける前に、出迎えた祖母が「大丈夫だった?」と言う。
「私もわかってないんだけど何があったん?」って聞いたら。
「生徒が飛び降り自殺したって」
え?って。本当に、そういう間抜けな言葉しか出てこなくて。
荷物を置きに自分の部屋に行って、そしてリビングのテレビをつけたら、ちょうど、ニュースでやっていた。
ショックだった。
全然知らない人。一つ上の学年の人。でも、つい昨日まで、同じ校舎に居た人。どこかで顔を合わせたかもしれない人。
生徒会だったから、総会やなんかでちらっと顔を見たような見てないような。そんな人。
終業式は、その話から始まって。
三者懇談が終わって、担任の先生や親御さんがあっと言う間もなく、窓に向かって、飛び降りてしまったらしい。
理由も何も、わからない。
その先輩のクラスは意気消沈としていて。
けれど、私は、何の関わりもない。
だけれど、それでも、ショックで、悲しかった。
心に穴があいたような。本当に、そんな。
一緒に過ごしてきた人たちに、そんなことを言うと失礼かもしれないけれど、私も確かに悲しかった。
つい昨日まで在った人が、居なくなるということ。
そして、悲しんでいた人が、ショックを受けた人が、再び、元通りに見える生活に戻ることの幸福と、残酷さ。
「自殺があった」という言葉で語られてしまうこと。
ずっと悩んでて、本当は答えは出ないのだろうけれど、ずっと思ってる。
何かの悲しみに打ちひしがれたのに、それを、残酷なくらいに忘れて、頭の片隅に残っていてもやっぱり薄れて、笑うこと。部活をして、勉強をして、そんなことなどなかったかのように、教室を使うこと。
それは、いいことなのか。悪いことなのか。悲しいことなのか、嬉しいことなのか。
「僕たちのムッシュ・ラザール」の子供たちの抱える感情の、心の穴の、断片を、私も確かに握っていた。
「僕たちのムッシュ・ラザール」が、大人たちが、学校側が、その件に触れないようにしようとするシーンがあって。
ああ、って思い出した。
私は、触れて欲しかったこと。確実にその人が居たんだ、ってことを、自分が忘れていることを自覚するのは苦しいけれど、それでも完全に忘れたわけではないと、誰かの口から聞くこと。
2年次の終業式で、校長先生がそのことを持ち出して、黙祷してくれたことが嬉しかったこと。
離任式で、生徒会顧問だった先生が、強く、そのことを話してくれたことが、嬉しかったこと。
何が原因なのかなんて、考えてもわからない。
そういうショックが癒えることが良いことなのかもわからない。
それでも「僕たちのムッシュ・ラザール」は、そんな悲しみにそっと寄り添う作品で。
一筋の光をくれる、というよりも、心ごとそっと抱きしめられているような。
まさに、最後のシーンが、映画そのものを体現している、そんな作品だったように思う。
こうして文に起こしてみると、いまだに頭の中の言葉を整理出来ていないけれど。
今まで吐き出さなかったこと。
残せるようになったこと。こうして書きたくなったこと。
これも良いことかはわからないけれど、前に進んでいると信じて。
野火でした。