日々に棲む

早く起きて文芸部の課題をしよう、とか思っていて、目覚ましでは起きなかったのに、ちょうど目が覚める頃合だったのもあってか、ひょんなことで目が覚めた。

地震

こうして書いた今もちょっとだけ揺れて身構えたけれど。

ここ数日ちょこちょこと揺れる。
深夜が多いのが幸せというべきか否か。

家の2階で過ごしているからかよく揺れを感じるのだけれど、少々のことでは地震警報を携帯は鳴らしてくれないので気のせいかと思ってしまう。

今日もならないから、揺れは勘違いだったのかしらん、と寝ぼけた頭で枕元の携帯をいじる。
県防災Webに接続しても出ない。いや、まあすぐには出ないと思うのだけれど、今日の2時にも揺れていたのだと知り冷や汗。
頼みのNHK・・・と頭が動き始め、携帯のアンテナを立ててみればNHKが丁度地震速報をやってくれているところだった。

私の所は断層に近い境目なので震度2,3ぐらい。
震源が三次の方だから、あんまり対岸の火事ではいられない。

あのへんの断層、学校付近にも家の付近にも繋がって走ってるんだけどなー・・・、確か、と思いつつ。

思えば、今年の東北関東大震災、そして以前だと新潟中越地震、そして私の生まれる1日前、の阪神淡路大震災とあったけれど、自分自身が、身体で体感出来る地震をこんなに度々味わうのは初の経験なのだ、と思う。

そして、そういう人が、どの地震の時にも、世代として居るのだ、とは、っとする。


同時にふと、私は例えば今地震にあって、生涯を終えたとして、それでも自分はその人生をよくやったと思えるだろうか、だなんて思ったりした。

きっと、あれがやりたかった、これはしたかった、とかいう悔いは、もうずっと何かしら持ってしまう気がするのだけれど、(少なくとも若いうちは)それが出来なかった、というのとは別で、今までの与えられた時間とチャンスの中で私は自分をどれだけ頑張ったと思えるのだろう、と。

ああ、でも例えば亡くなった時には、このブログには伝えることも出来ず、ずっと、ここはこのままなのだろうか、と思うと、寂しいような、嬉しいような。
残っているのは不思議だけれど、そのまま何も・・・というのはなあ、と思う。

未だに、東北関東大震災から音沙汰のないブログが心配なのだけれど、連絡をつけるすべをそれ以外に知らないからなあ、と、他人のことなら私は思うので、きっと私の場合でもそうなるのだろうか、と思ったり、思わなかったり。
上手く、言葉に出来ないのだけれど。

以前、といっても東北関東大震災のあと、地学で江戸時代後期からの、震度5強以上の地震に印をつけて、場所の集中とその場所の間隔を表と地図にまとめたことがあった。

その時は広島もそんなに先じゃないな、とぼんやり思って、でもまだ身に迫って考えなかったけれど。

今日学校に行ったら引っ張り出して確かめてみようと思う。

今地学を教えて下さっている先生が、学生時代にやって、それいこう絶版となっていたという教材。
先生が、学生時代のものをプリントに起こしてくださった。


そして、どうあれ、自分はもっとやれてた、と思わないように。
死ぬ先じゃなくて、生きる今を見て今日を過ごそう。
日々に棲む。