半年

もう半年と言うのは嫌だし、まだ半年というのも違う気がして。
勿論あっと言う間ではないし、気付けばというもの何だか。

上手く言えないけれど、3月11日の地震から半年。

次に向かって行こうと日本というか・・・外野は応援してますが。
そうは言ったって、まだ立ち上がれない方も、過去に出来ない方もいらっしゃると思うし、勿論、歩き始めてる方もいると思うし、振りきれない人だって大勢だと思います。

悲しいのは、外野な自分だなあ、と常々。
忘れていくのも、薄れていくのも嫌で、許せないのに、確実にそうなっていく自分と、外野の周りが嫌でたまりません。

日々減ってゆく募金箱が、虚しいなあ、ってよくお店とかで思います。
直後は見渡せば必ずあったのに、たった・・・そして長い、そんな半年、持たない。

そして私自身も、そうだな、って。

先輩が亡くなられてしまった時の感覚と似てる。
忘れるのも、薄れるのも、嫌なのに。
続いて戻っていく日常が何だかなあ、っていう、やるせなさ。

当事者の生々しい現在を、過去としてしまえる薄情さ。
どこかでつなぎとめていたいのに、と思うのに、出来ない自分が悔しくて、悔しくて、本当に嫌いだし、そういう全体も嫌いなのだけれど、その日常の中でほっとして以前と変わらず笑う自分がいるんだよな、って思う。

いいことなのか、悪いことなのかわからないし、決めるのは私ではないけれど。

悔しい、悔しい。

外野はもっと長いスパンで支えなきゃいけない。

例え当事者が死の街と評しても。
そう感じて失念しても。
外野だけは言ってはならない。
外野だけは手を離してはいけない。

そう思うのですが。難しいのが現状で、それは所詮理想論なのかな、って思う。

でも、なれることなら、そんな人間になりたい。
そんな世界であると信じれるようになりたい。信じていたい。

外野は、当事者の人達が、失念した時に掴むことの出来るものでなければならないと思う。
そして掴むことの出来る・・・掴まれてゆらがない人間でありたい。
自分は揺らいでも、掴まれる時にはしっかり立っていたい。根を張っていたい。
一緒に折れてしまうのではなくて、見た目は強くあらずとも、立っていられる、柳のようなそんな人間になりたい。
誰かのそんな存在でありたい。
誰かは誰かの、そんな存在になりうるのだと思いたい。

70年草木は生えないと言われた地にも芽吹く花があったように。
また枝を伸ばす樹木があったように。

自分がそんな人間であったなら、良いのに。

想いを全て汲み取って頷く人間ではなくて、黙って手を差し伸べることの出来る人間であったなら良いのに。



自分のために、自分以外の誰かのために、想いを馳せて過ごした人への半年に。

祈りを込めて。