トニオ・クレエゲル

どうも調べたところ、今では、トーマス・マンの「トーニオ・グレーガー」として一般的に広まっているようなのですが。

ここはあえて、実吉捷郎さんの古典的な訳トオマス・マンの「トニオ・クレエゲル」


トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

読みきりました!!!

父君に読書感想文の本で迷っていたところ勧められた中篇・・・になるのでしょうか。小説でした。

去年の「人間の土地」のように、とてもうきうきして読んだけれど感想文どう書けばいいの。日常とか、自分の思いと照らし合わせてって、砂漠遭難記ですけど、これ。

みたいなことを予測していたのですが、全くそんなことはなく。

もう、最初の部分から引き込まれて・・・。

あ、一応言っておくのですが、魅せる感じの文章ではないです。全く。

何に引き込まれるのか、って、主人公が、自分のように思えるところ。

おそらく、共感出来ない人は、本当に共感出来ない。
母君は、「何こいつ」と思いながら最後まで読んでいたそうですが、それも確かに頷ける・・・。でも、とても共感しただけに、なまじ、痛い。ちょっとショックでしたね。

こういうことを思うのは自分だけではないのか、と思う反面、作中の捉え方や、母君の言葉を聞いていると、やはり変わったたぐいに入るのかもしれない、と。

重松清さんは、青臭い悩みを、後に過ぎ去った人からすればそんなに深刻でもないけれど、只中にいる人にとっては、それがとても大きく、全てに思えるような。そんな思いを汲み取って下さる感じで、そういうところが好きで、そういうところが感想文が書けない由縁なのですが。

この「トニオ・クレエゲル」の悩みは、一時のものではなくて、性格的に、生涯まとうものなんですね。多分。
そうして、素敵な女流作家に打ち明けることで、自分を振り返ってみる感じがもう素敵で。

美少年ハンスに憧れ、その反面自分はなりたいと思うけれど、なりたくもない、と思う感じ。
もう、わかる、わかる!みたいな。
自分が言葉に出来ないことを、もろに出してくれている感じ。

主人公トニオが、自分は戻って、ハンスのようにやり直せたら、と考える場面。けれど、それは無理であろう、と。やり直すとしても自分は同じ道を歩むだろうし、今と同じ轍を踏むに違いない、と。

そしてそこと、最初のハンスの場面。私の中では繋がるのですが、母君はそうでもなかったようです。

上手く言えないけれど。

何ていうか、自分の性格が好きなわけではないのです。周りと上手くいかず、どうしていいかわからないような。
そして、だからこそ、ハンスのような、自分とは違うものに憧れるんです。
でも、憧れと、なりたいのとは違って。
もう、自分の出来上がったしまった自我や性格からして、自分は憧れはするけれど、そうなることには憧れない。自分がそうなることは無理である。

単純な諦めというよりも、軽蔑に近い。

憧れの存在の生き方を否定はしないけれど、それをどこかで軽蔑しているようなところがある。

軽蔑と言ったら、言い方悪いし、ちょっと違う意味に捉えられそうなのですが。

プライドが許さない、とでもいえばいいのでしょうか。その生き方には憧れるけれど、その生き方をすることに、自分の性格では許せなかった、というのが1番近い。
それでも、憧れてはいるっていう、一見複雑な。
自分の性格では許せなかったからこそ、辿れなかった道を歩いているからこそ、軽蔑しながらも、それを許せる性格に憧れていて。

そして、根本にあるのは、他人に認めてもらいたい、ということ。

同じ類の人間はまず居ない。仮に居たとして、それから認めてもらっても何の喜びもない。
多分、トニオも近親憎悪ではないかな。
違う人に、とりわけ、憧れである人から、認めてもらいたい。

好きになってもらいたい、とは似通っていて、ちょっと違う。

そういう人間もありなのだ、と認めてもらいたい。

軽蔑じゃなくて。

自分では嫌いだし、世間からも受け入れてもらえなくとも、その性格で、自分は認めてもらいたい。

好かれるために、己を偽ることが出来る人もいるけれど、それを潔しとしないのが、己の性格で。
それを熟知していて、更には自分では嫌いな性格でも、どこかで誰かに、自分のありのままを受け入れてもらいたい、と思うわけで。

母君には「身勝手」とばっさりいかれましたが、少なくとも私はそうだし、少なくともトオマス・マンさんも、そうなのでしょう。
少なくとも、トニオはそう。

いつもは、主人公は主人公として読むのだけれど、これは一体、という感じ。

トニオは自分自身。

もう、性格に多少の差・・・とかの話ではなくて。
「偽りない自分を認めてもらいたい」というのが。

そんな気がして読みました。

自画像を写し出されている感じ。

共感して、涙する、というのとは全く別口の共感。

そして、自分を偽り、世間に伍することを潔しとしないながらも、「認められたい」ゆえにそれを軽蔑しきれず、振り払えきれない自分も居る感じ。




「もうそれでおしまいですか、トニオ・クレエゲルさん」
 「いいえ。しかしもうなんにも言いません。」
 「ほんとうにこれで充分ですわ。―返事を待っていらっしゃるの」
 「返事があるんですか」
 「あると思いますけど。―わたしよく伺っていましたの、トニオさん、始めからおしまいまでね。それで今日の午後おっしゃったことの、どれにでも当てはまるような返事をしてあげたいの。それがまた、あなたをあんなにいらいらさせた問題の解決になるんですよ。さあ言いましょう。解決というのはね、あなたはそこに坐っていらっしゃるままで、何の事はない、一人の俗人だというんです」
 「僕が」と彼はきき返して、少したじろいた。
 「ほらね、ひどいことを言うとお思いになるでしょう。そりゃ無論、そうお思いになるはずですわ。ですからわたし、この判決をもう少し軽くしてあげましょう。わたしにはそれができるのですから。あなたは横道にそれた俗人なのよ、トニオ・クレエゲルさん―踏み迷っている俗人ね」
 ―沈黙。やがて彼は決然と立ち上がって、帽子とステッキを手に取った。
 「ありがとう、リザベタ・イワノヴナさん。これで僕は安心して家へ帰れます。僕は片付けられてしまったのですから」
 (中略)
 「実は僕の―僕の発足点に立ち寄って行きます、リザベタさん、十三年振りで。きっとずいぶん妙な気がするでしょうよ」
 彼女は微笑した。
 「そこなのよ、わたしが伺おうと思ったのは、トニオ・クレエゲルさん。じゃまあ、御機嫌よく行っていらっしゃい。お便りを下さることもお忘れなくね、よござんすか。きっといろんな経験を盛ったお手紙が頂けると思って、待っていますわ―そのデンマアク旅行からね・・・・・・」



読んで良かった。私の救いの一冊です。