8月15日という日

今日は何の日、って、たぶん、今度は広島の人じゃなくても、全国の方、みんなピンとくると思う。

そう、終戦記念日・・・。


ちなみに、9日、長崎の原爆の日だったの、書かなかったことを反省しています。
何か・・・・・・うん、申し訳ない感じというか、後ろめたい感じ。

当時、私は当然生まれていなかったわけで。
生きていたはずの祖父母は、そういうこと、語らないし。・・・聞けば語ってくれるのだと思うけれど、そういうものではない気がする。個人的には。

当時の人々が、どういう気持ちでこの日を過ごしたのかわからないけれど。
怒っていたのか、悲しんでいたのか、ほっとしていたのか。

・・・多分、色々混ざり合っていたのではないかな、と個人的には思うけれど。単純に、ただほっとして喜んだ人はいないと思う。
そう出来るのが1番とは思うけれど、そうではないのが、戦争っていうものだと思う。

天災とかではなくて、人と人がぶつかると、どうしても原因が目の前に浮かび上がってしまうし、怨む対象も、憎む対象もわかってしまうし。
・・・もしかしたら、そういう範囲を超えてしまって、何を怨めばいいのかもわからないのかもしれないけれど。

当時のことを知っている人も、語ってくれる人も、どんどん減ってくる。
風化してしまうのを止めるために、聞こう、語ろうとする機会があるけれど。

それは大切なんだけれど、何より大切なのは、私みたいな、知らない人が、知ろうとすることだと思う。
当事者の言葉を聞く機会があるから知ろうとするのではなくて、こういう1日の、ほんの一瞬でも、どうであったのかな、って思えることじゃないのかなって思う。
あくまでも、個人的な意見だけれど。

天災は、当事者の言葉が全てだと思うけれど。こういう出来事は、私情が大きいから、そればかりではないのだと思う。

きっと、幾重にも重なってる思いがあって、それは当事者以外誰も知りえないのだけれど。
当事者以外が、想像するだなんて、おこがましいことなのだろうとは思うけれど。


・・・何だか、色々、上手く言えないけれど。


出来事を、当時を知らない人が、新しい角度で、見てみるのも、大切だと、思う。当事者、そいう角度も大切だけれど、当事者寄りの第三者という角度もあると思う。
そして当事者でも多分、日本の人も居れば、アメリカや、世界も当時者で。

どうせ知るならば、そういう面も知れたらな、と思う。

「この世界の片隅で」の時も思ったけれど、あの時代生きていたのは、まぎれもない人なのだから。

出来事を知るだけじゃなくて、そこから、色んな角度から見た結果、どういう時代だったのだろう、と。どういう思いで同じ人間が生きていたのだろう、と考えることが、1番大切なんじゃないかな、と、私は思ったりする。

青い、浅はかな考えと、笑われるかもしれないのだけれど。



指揮官たちの特攻: 幸福は花びらのごとく (新潮文庫)

指揮官たちの特攻: 幸福は花びらのごとく (新潮文庫)

中学校2年生の時、読んだ本。
亡くなってしまわれた、城山三郎さんの作品。

・・・戦争、よりもそこに生きていた「人」を描き出している作品、という印象を受けました。

二十歳前後までの人生の幸福とは、花びらのように可愛く、また、はかない。
その一方、かけがえのない人を失った悲しみは強く、また永い。
花びらのような幸福は、花びらより早く散り、枯れ枝の悲しみだけが
永く永く残る。
それが戦争というものではないだろうか、と。


この時期になると、また読みたくなります。


多くの人のご冥福をお祈りして。また、平和を願って。
「あやまちは繰り返しません」ことを願って。


・・・紅白の時のみたいですが。未だに、最後のアドリブのセリフが、胸に突き刺さります。
未だに、そして、今だからこそ。