『銀の匙』の決意 中編
今日明日に更新したいとか言ってたのですが、バタバタしていたのと、疲れていたのとで、更新出来ませんでした。
でも、それが功を奏したので、急遽、中編。
- 作者: 橋本武
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/03/23
- メディア: 新書
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心境としては、「銀の匙」延長戦。実際、延長線なのだけれど、気分は延長戦。
その理由はまた後編の本題に繋がるので、おいておくとして。
「銀の匙」を、読み終わって。
後編を更新出来て無いなあ・・・と思いつつ過ごしていると。
昨日HRで配られた図書室の通信。
三年になってからも、元からもあんまり図書室で借りることはないのですが、ずっと新刊本はチェックしていました。
以前はチェックしているもので持っていない、買うか迷うものは借りに行っていたのですが、3年は、(本屋でもですが)チェックしたものは何かにメモしていました。
いつか、読もう、みたいな。
実際担任の先生も「受験生だからあんまり本とか読む余裕ないかもしれないけれど、まあ、息抜きとかする人いれば。」とか仰っていたのですが。
今回も例の如くマーカーを引いているところへ「<銀の匙>の国語授業」の文字が飛び込んできました。
読んだ後に軽くインターネットで調べて、話は知ってました。
「銀の匙」を、三年間かけて読み込んでいく先生が、いらしたというお話。
読み終わった直後の、そのタイミング。
運命だとか、そんな風にしか思えなくて、放課後に図書室に飛び込んで、司書の先生に言って、出していただき、借りました。
家とか、通学路とか関係なく全力を注いで、本日、2時間目前の移動教室の際に読み切りました。
読んでよかった。楽しかったです。
こんな先生、いらっしゃるんだ、と。
横道にそれながらの、ゆったりの授業。
持ち上がりが多く、ある程度自由度の高い私立で、まだ無名だった頃、素敵な好調先生の支えもあって出来た、この授業法だとか。
「銀の匙」を、じっくり、じっくり。
教える前の研究段階で、作者の中勘助さんにお手紙を出して、交流が始まっただなんて、そんな話も。
ああ、何て素敵。
授業も素敵だし、そうやって身一つで、何かに飛び込めるのも素敵。
そして、私の思いを汲み取っていただいたような気にも、勝手になった。
「銀の匙」のことも、生徒の理想とする授業のことも。
感想文を、どんな内容でも、必ず書く、というのを聞いて、なるほど、と思った。
確かに、私は感想文はとても好きだった。
読書感想文も、好き。
ただ、あんまり自由なこと書くから、あんまり評価はよくなかったけれど。
そう、小学校の恩師のK先生は、私が文章表現が好きになったきっかけを作ってくださった先生だったけれど。
作文に細かく細かく赤ペンを入れて下さって。
こうしなさい、じゃなくて、可能性を提示してくれる。
自分で、考えて、直して、それをまた添削して貰って、また考えて。
一つの作文を、3回も4回も直すのだけれど。
それが、全然苦じゃなかった。楽しかった。好きだった。
思いつかなくて、えーって思っても、先生と話して、考えて、思い付いて、認めて貰った時の、すっきりした、何とも言えない達成感が好きだった。
去年、現代国語を担当して下さったY先生も大好きだ。
他の先生みたいに、特別試験に上手いポイントつくわけじゃないから、すっごい好き!って人は少なかったけれど。(あ、でも文章題練習はとてもタメになった。)
その先生の最大の特徴は、感想を書かせて下さって、それにきっちり目を通して、ペンを入れてくれるところ。
何度か褒めて貰った・・・というより私の突拍子もない感想文を面白がってくれたことがとても嬉しかった。
初めてまともに話した時などは、「野火さんって、クレエゲルの句の子よね。」と言われた。
夏休み後に、最初の授業で、夏休みの思い出の句を作れと言われて、俳句、短歌が苦手な私は投げやりに二句作った。
○クレエゲル ふと顔上げる 蝉の声
●六つ差に 愛しき達筆 葉月始まり
説明がないと(むしろ説明があっても)意味のわからない超なげやりの句。
でも、先生は覚えてて下さったらしく、私を顔ではなく「クレエゲルの句の子。」と認識していたらしい。
勿論これは、「クレエゲルって何?」と聞かれた。当たり前である。
夏休みの読書感想文の題材に選んだ「トニオ・クレエゲル」。
クレエゲル。そういうことです。
ちなみにふたつ目は高杉晋作さんが桂小五郎さんに宛てた手紙を博物館で見ただけの話。達筆なのに内容が可愛かった、と。
あとは、やっぱり俳句、短歌の鑑賞の時に想像して、どんな状況で、どんな思いを歌ったものなのか書きなさい、ということで。
本当に好き勝手に書いていたら、たまたま用事で先生を訪ねた時に「詩人ね」と笑われた。
夜に歩く子猫を見た、という句に、勝手に仕事から帰って疲れた男性が、気分転換に家の前に煙草を吸いに出た、っていうことから書き始めたり。
雨の中ラガーが走っているのを見下ろしている句で、いきなり、そのラガーの走る様は人生の縮図のようだみたいな話までしたり。
恥ずかしいことばかりで、いっつも、書いたあとに我に返って、最後に「・・・みたいな。」って付けてました。
評論の習った後に好き勝手なことを書いた感想文もあったし、最初に朗読CDを聞いた後の感想文には、山月記に、人間として外れたから虎になったはずの主人公に対してとても人間らしいと書いたり。
びっくりしたのは、授業の中で、「誰だったかな・・・濃紺だったかしら。濃紺の中ってこの作品を表現した子が居たのだけれど。」と仰ったこと。
山月記の感想文、そう、出だしに「濃紺の内に居たようだった。」とかそんなことを書いた。
そうやって、面倒を見て下さる人が周りに居て、恵まれていたから、私はずっと、国語に抵抗がなかった。
最近、テストで躓くけれど、嫌いだと思ったことはない。
ああ、幸せだったのだなあ、と、読んで思った。
・・・あれ、趣旨が大幅に変わりましたね。
つまりは、なるほどな、って、実体験を振り返るきっかけになったということです。
「博士の愛した数式」を読んだ2年後に、実際に同じ御病気の方と、お会いする機会があった時にも、「博士の愛した数式」との出会いは、運命だったのでは、ぐらいに思ったけれど。
ああ、今回の「銀の匙」もそう思いたくなった。
運命だなんて、自分の先は決められてると考えるようで、あんまり得意な考えではないけれど。
そうだな、奇跡と言うのだろうか。ああ、でもそしたらちょっと安っぽくなるかしら。
明林堂の手描きPOPが、実は角川の力を入れたPOPだったことを知ってショックを受けるも、それを、良いところに出して下さったのは、明林堂さんが、やっぱりこれはいい、と思ったからなのでしょう、と信じたい。
だったら、明林堂の出会いから、更新を遅くしたためにこの本に出会えたということまで、そして、私が気付けば読書をしていたような、幼少期から、素敵な先生に出会えたことまで。
ずっと、繋がっていたのかしらん、と。
そんな気分になった。
ああ、それも、素敵。
この方の薦める本に「トニオ・クレエゲル」があったことも、そうだと良い。
こうやって、「博士の愛した数式」を今でも振り返るように。
また、ずっとこの先も、「銀の匙」を振り返れたら、いい。
そんな感じで、延長戦、中編。
野火でした。