星の王子さま

          おとなは、だれも、はじめは子どもだった。

       (しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)



言わずと知れた冒頭部分ですが。
これが本当に大好きで。キツネのセリフも大好きなんですけどね。

自分も、そういう大人になりたいと思っていました。今でも勿論、思っています。

けれど、大きくなって、薄れていく子どもだったこと、の変わりに、その時は見れなかったものが、見えてくるようになるのだと。


そんなことをぼんやり思った、からっぽの最後尾車両の1番後ろの端の席。

愛蔵版 星の王子さま

愛蔵版 星の王子さま


さて、そんな私は、本日・・・まあ、時間的には昨夜ですが。
保育園実習にお邪魔させていただきました!!!

家庭科を選択した2、3年生での希望者が参加した保育園実習の1日目。
人数多かったので、前半組と、後半組に別れているのです。

私がお邪魔させていただいたのは、実習させていただける中では最年少。1歳児のクラスでした。
本当は、1歳前半の子のクラスと、後半の子のクラスと別れているのですが、本日はお盆のお休みをとられる親も多いようで、人数が少なかったため、合同となっておりました。

いやあ・・・親戚が小さかったことはあったけれど、小さい子をいっぺんに間のあたりにしたのは初めてで。びっくり。

自分にもこんな時代があったはずなんだよなあ・・・と思いつつ、あんまり覚えていません。
泥団子作りに燃えていたことと、先生が大好きだったことと、大人同士の会話はいまいちよくわからなくて、ビデオの早送りのように思えていたこと。そのぐらいでしょうか。
年長の時の担任の先生が地震にいつもうとく、他のクラスが先生に寄り添って真ん中に固まっている時に、のん気に掃除していて怒られていた記憶はある 笑
例の原爆の劇のことと、時計のことと、原爆資料館のことは・・・別の思い出のようにとっているのでしょう。自分の中で。

用心深い子と、すぐに飛びついてくる子といて。可愛い、可愛い。
ちょっとおすましさんみたいな子が、なついてくれるとすごく嬉しい。

私もかなりの人見知りだったから、可愛くない子どもだったのではないかしら、と。
おすましさんの女の子なんかは、自分の子供の姿と重なって、中々先生とかに遊んで、って言えないけど、実はかまってほしかったんだよな、とか思って。
ちょこちょこ様子みていたら、自分から黙っておもちゃ持ってくるようになりました。

面白かったのは、同じ1歳、という一年に、とても大きな個人差があること。

1番小さい子は、まだ足がたっていなくて、抱っこしないと、大きな移動は出来ない。けれど、同じ前半のクラスだけでも、走れる子は走れる。
いきなり斜めからブーンと飛びついてきて、「危ないよ〜」と言ったら「僕、曲がれたよ!」とニカッと笑う。
歯が白い。その子はもうはえそろってたけれど、まだはえそろってない子は本当に生えてない。

子どもの頃はたんなるお遊戯だったリズム遊び。
片足で跳ねれるけど、まだ両足そろえては跳べないんだね、とか。
仰向けに転んで自分の足が掴める、とか。そこまでくると、出来る子、出来ない子の差がはっきりしてくる。先生方が、ひとりの女の子を見て、「昨日までは出来なかったのにね。」って言ってた。
日々成長してるのを、確かめてるんだな、って思う。

言葉の指示にも、言葉はわかってるけど聞かない子と、わからなくて聞かない子といるのが、見ていて分かる。
理解、というものが前面に出る。

お友達と二人組になって、シーソーみたいな引張りっこをする時も。
自分から友達を見つけて、二人組になるところからスタートする。
「僕と一緒にやろうよ」と誰かを誘いに走る子も居れば、黙って立っている子もいるし、笑って走りまわっては、誰とも組まない子もいる。
おすまし屋さんは、きっと先生と組みたがってるのだろうな、と思ったら案の定だった。
一回目は先生とやり、2回目は私のところに来た 笑

でもそのおすまし屋さんと、もうひとり同じぐらいの女の子。
1番小さな足の立たない男の子がいつの間にか泣いてて、他の先生が気付かず。
私があれ、と思って近寄ると、おすまし屋さんが指差して目で教えてくれた。
そしてどうしたものかと思っていたら、女の子二人してその子の頭をなでなでし始めた。ぎこちないけど。一年の差もないのに、お姉さん、とか思うんだろうな、とか思ってみたり。あんまりにも微笑ましい光景で、思わず口が緩んでしまった。
結局背中を軽くたたいたり、さすったりしてあげたら泣きやんでくれたのだけれど。

1番興味深かったのは、食事の時。

上手くフォークを使える子。上手くは使えないけど、率先してフォークを握る子。フォークを構えていても、反対の手が率先して出ちゃう子。フォークなんか使わずに両手をフルに活用する子。
大きい子の組は、とか小さい子の組は、ではなくて、本当に個人の問題。小さい組の子がフォークで頑張っていても、大きい組の子が、5本の指をせっせと動かしていたりする。
びっくりしたのは、そうめん。これも組関係なく、すすれる子は、上手くすするのだ。
他の子はもぐもぐ地道に噛むんだけど。ちゅるっとすする子は、見てるこっちが気持ち良くなるぐらいのすすりっぷり。
大人でも苦労する人は、苦労するのに。
そして、ひとりハーフの子が居たけれど、その子はすする・・・ではなく、みんながフォーク、または手ですくっているそうめんにフォークを立てて、スパゲッティのようにくるくるし始める。さすが、としか言い様がない。
こんな風に、家庭環境も出るのよ、と先生方はおっしゃる。

「1番苦労することは?」と尋ねたら。

「子どもを理解すること」と仰ってくださった。


例えば、騒いでいう事聞かない子も、それはただたんに性格なのか、そういう風にしていないと落ち着かない、病気の一種なのか、それとも家庭環境でそういうのが許されているからなのか、そういうのは家庭の中で育てるだけではわからない。
そして、預けられたからには、それをなるべく早く知ること。その子がどんな子なのか、だから、どういう対応が必要なのか理解してあげること。
もしわかったとして、そういう子だから、としてしまっては、その子は社会に出られない。
集団行動の場でもあるのだから、目をかけてあげると同時に怒ってあげることも必要だし、小さなことから、ステップアップをはからなければならない。
例えば、物を覚えるのが人と比べて遅い子に、何でもやってあげるとかではなくて。例えば、その子のロッカーは、1番隅の角にしてあげて、「真直ぐ行けば、自分の場所」という少しだけ、簡単な条件にしてあげる。
集団になれなくて、みんなでダンスをしようとしても動かない子には、手をとって一緒にしてあげる。
食事を中々食べない子には、少しずつの条件を出して今日はこのメニューが食べれた、としてあげる。
叱り方だって、その子に合わせた叱り方がちゃんとあるのだそう。だからこそ、普段から子ども達をちゃんとみて、それも色んな角度から見て、色んな先生が意見を交換するのだそう。

一度成功すると、子どもはちゃんと出来るんだ、って思うのよ、と仰ってくださった。
積み木に例えるなら、その日積み木を5つ積み上げることが出来たら、今度はその子は5個目からのチャレンジが出来る。
そういうふうに、少しずつを積み重ねてあげるのよ、と。

そこの先生は、月の頭に、その月の目標を、ひとり分ずつ、全員分たてるのだそう。

とってもささいなことで、小さなことだけれど、365日がたつと、それはとても大きな飛躍になるのだそう。

それは、とても幸せなことだと思う。

この道30年、というベテランさん。色んなことがあって、そう語れるまでになるのだろうな、と思う。

この子ども達もいつか、自分達の保育園時代を思い出して、そのひとつひとつの行為の、理由を知る日がくるのだろうか。

来れたらいい。

今日の私が、そうだったように。


子どもの時にはわからなかったことが見えてくる。

多分、今この時を振り返って、また見えてくるものが、将来あるんじゃないかな、と思う。

そうあればいい。


そして同時に、その頃の自分は、どんなことを考えていて、どんなことを思っていたのか、しみじみと思い出せるようになっているといい。

そしてそれをくだらないことだ、と捨てないで、その時目の前にいるものに対して、見つめ直す姿勢をとれるような、そんな自分であったならいい。